「くにさき」の鬼様
4月20日からスタートする鬼朱印・不動朱印めぐりに出掛けられる前に、「くにさき」の鬼様について少しだけ予習をしておくと、より楽しめると思いコラムを作成しました。
仏教とともに日本に伝わった「鬼(キ)」は、中国では死霊を指すほか、仏教世界における「地獄に出る怪物」にあてられていたため、日本で「鬼」と言えば、一般に角が生え、虎皮を纏った怪物のイメージがあります。
しかし、鬼の語源を探れば、おぬ[隠:見えなき者]から転じたとされ、人里離れた山や夜の市井の中に現れる、様々な物の怪や超常現象、神様を指す言葉として定着していきました。そのため、日本各地には「地獄に出る怪物」以外の様々な鬼が存在しています。
中でも「くにさき」の鬼は、切り立つ岩峰中の洞穴に棲み、新春の法会「修正鬼会」で里人に幸せをもたらす、独特な鬼です。「くにさき」の人々は鬼に畏敬の念を込めて「鬼様」と呼びます。
天念寺修正鬼会
岩戸寺修正鬼会
「くにさき」の鬼様の見仏ポイント
「くにさき」の鬼様は仏様の化身
「くにさき」の鬼様は、仏様の化身であると捉えられています。一般に荒鬼は不動明王、災払鬼は愛染明王、鎮鬼は千手観音の化身とされています。ですから、「くにさき」では、鬼を1人、2人と数えることが多いです。
それぞれ持ち物に共通点があり、荒鬼は剣、災払鬼はまさかり、鎮鬼は木槌を持っています。荒鬼の剣は時に「不動刀」とも呼ばれています。それぞれの道具で人々に福をもたらすとされているのです。
一見すると鬼には見えない「鈴鬼」と呼ばれる男女の面も、立派な鬼様の一種です。2人の鬼は、鈴を使って力の強い荒鬼・災払鬼・鎮鬼を安全に呼び出す役目を持っています。鬼様の力はすさまじいもので、かつて修正鬼会の作法を間違えた僧は、本物の鬼となってしまったという伝承が多くあります。
まさかりを持つ災払鬼
剣を持つ荒鬼
「くにさき」最古の鬼面を探る
「くにさき」の修正鬼会は、1300年の歴史を持っているとされていますが、実のところ、いつ頃創始され、どのように伝わってきたか、分かっていない部分も多くあります。
「くにさき」最古の面は、富貴寺に伝わる面です。男女の面、菩薩面の3面が伝来していますが、男女の面の裏側には「御修正會」の墨書がうっすらと見えます。科学的な分析によれば、「久安3(1147)年」の文字が見え、平安時代の富貴寺では既に修正鬼会の原型の1つである修正会が行われていた事がわかります。
史料を紐解くと、香々地長小野に伝来した夷岩屋に関連する古文書に、「鬼会」の文字が見えます。このことから、鎌倉時代末ごろには、国東半島では鬼会が催されていたと捉えられています。その夷には戦国時代の面を、江戸時代に復刻した面が残されています。鬼の意匠としては「くにさき」最古のものとされています。
そして、モノとして最古の鬼会面は千燈寺の鬼会面。慶長15(1610)年に、宗明という人物が制作したとされています。大きな耳、一本角があり、この面が多くの鬼会面の意匠の元となった面と言えるでしょう。
富貴寺に伝来する修正会面
霊仙寺の鬼面は文明期のものを復刻したもの
千燈寺の鬼は「くにさき」の鬼のモデル
なぜ多様な鬼会面が作られたのか?
「くにさき」の面の最大の特徴はその多様性。様々な面が作られた素地には、「くにさき」の谷々に、それぞれ鬼がいたから...というと少しオカルトな感じがしますが、「人と鬼との距離が近い」という事は言えると思います。どの谷にも、鬼が棲んだと伝承される岩峰や洞穴があり、村人は鬼様を普段から身近なものと感じてきました。
また、表現する者として、「職人」が各谷にいたという事も挙げられます。「くにさき」の谷々は、元々寺院境内として展開してきました。各谷には住僧と呼ばれる身分(その中には僧侶・職人・農民【供養料として米等を納めることを条件とする】など)があり、谷毎で仏像などを拵える職人が住んでいました。
谷々の鬼像がハッキリしていることと、それを表現できる職人がいたことが、「くにさき」に多様な鬼会面が残る要因になったと思われます。
個性豊かな鬼様と出会える 春の御朱印
4月20日からはじまる六郷満山の春の限定御朱印。
日本遺産の事業で、鬼様・不動様のお姿の印を作らせていただきましたが、今回紹介した鬼様も印にしております。「くにさき」にとって、鬼様が特別な存在だという事を感じながら、鬼朱印めぐりをしていただけると幸いです。
それでは、春の「くにさき」でお待ちしております。