「六郷山」とは?
六郷山は、国東半島の6つの郷(来縄・伊美・田染・国東・武蔵・安岐)に点在する天台宗寺院群のこと。「六郷満山」の名で良く知られています。
養老2年(718年)に、八幡神が姿を変えた仁聞菩薩が、28の谷にそれぞれ寺院を開き、69,000体の仏像を作ったとされます。
実際には、宇佐神宮やその神宮寺である弥勒寺の僧侶の影響を受けて、平安時代ごろに徐々に整備されていったものと考えられています。
六郷山の修行「峯入り」の様子
伝仁聞像(夷岩屋 六所神社)
「六郷山」の名称について
「六郷満山」という言葉をよく耳にすると思いますが、実は近代に入ってから使われ始めた言葉です。その前、古代から江戸時代にかけては「六郷山」という言葉が使用されていました。
史跡の指定においては、「六郷山」のはじまりにあたる古代~中世の時代が重要視されているので、「六郷山」という名称が指定名称となっています。
今回指定される範囲について
六郷山の境内地の特徴
今回は、境内地の中でも信仰のはじまりにあたる「岩屋」などの遺構や、地形に合わせてつくられた伽藍配置(山の寺、谷の寺)が重要視されています。これらの伽藍配置は、概ね平安時代ごろに形成されたものと見られ、非常に伝統的な信仰空間を今に伝える貴重な遺構です。
また、山の寺においてまっすぐ縦に伸びる参道や、中世石造物が展開する堂宇(跡)や坊跡が、今回新しく保護の対象となっています。
長安寺(豊後高田市加礼川 都甲谷)
豊後高田市東部、都甲谷の奥の加礼川地区、屋山の中腹に作られたのが長安寺の境内です。長安寺は中世の頃には、「惣山」として六郷山全体を統括していた寺院です。
寺宝として有名な太郎天(重要文化財)や、銅板法華経(重要文化財)は、ともに12世紀前半のもので、長安寺が平安時代に隆盛した様子がうかがえます。
六郷山の中でも山の寺の伽藍配置の代表で、六所神社からまっすぐ伸びた参道が特徴的で、講堂跡、本堂、各坊跡などが参道脇に展開しています。中でも注目されるのが講堂跡で、かつて鬼会が行われていた講堂の礎石が現在も残っています。
長安寺遠景(ドローン撮影)
長安寺講堂跡の礎石
天念寺(豊後高田市長岩屋 長岩屋谷)
豊後高田市東部、長安寺の北側の長岩屋地区の谷に沿って作られたのが天念寺の境内です。天念寺は中世の頃には「長岩屋」と呼ばれていた寺院で、現在は天空にかかる無明橋が著名です。
谷の寺の代表である天念寺の伽藍の中心は、現在修正鬼会が行われることでも有名な講堂で、隣の身濯神社とあわせて、横長の大きな岩屋の中に配置されています。また、川中不動においては、岩の頂点から経塚が発見されており、平安時代の信仰の様子が分かります。
講堂の前には、長岩屋川が流れており、川に沿って坊跡が点在しています。比較的古い石造物が残っている円重坊跡の五輪塔群、大満坊跡(七郎ヶ迫)の五輪塔群が新しく保護の対象となりました。
天念寺講堂・身濯神社と岩屋
新しく保護の対象となる「七郎ケ迫五輪塔群」
夷岩屋(豊後高田市夷 香々地谷)
豊後高田市の北東部、香々地の夷谷の奥にある夷地区に整備された寺社境内で、古代から中世にかけて「夷岩屋」と呼ばれた寺院がありました。現在では、夷地区の霊仙寺・実相院・六所神社のある場所が1つの信仰の中心でした。
六所神社は江戸時代まで霊仙寺の境内の一部であり、東側に元々の境内社であった今夷社、その奥に奥の院の岩屋があり、それぞれに平安仏の残欠が祀られていました。また、六所神社の本殿の周辺は、岩室の影になっており、明治初頭までは講堂があったとされています。
霊仙寺などの境内の前には竹田川が流れており、川沿いに点々と坊跡や末寺の跡があります。また、すぐ対面には兄弟割石を境界にして、中世~近世にかけての霊仙寺の墓地が広がっています。
中山仙境(虎御前)から見た夷岩屋の境内
岩屋を背にした六所神社本殿など
岩戸寺(国東市国東町岩戸寺 来浦谷)
国東市の西部、来浦谷の奥にある岩戸寺地区に整備された寺院境内で、中世には「岩殿岩屋」と呼ばれた寺院のものです。最も古く、美しいとされる岩戸寺国東塔や、修正鬼会で著名です。
岩戸寺は、山の寺の伽藍配置の代表寺院で、薬師堂(と岩屋)を最も奥として、まっすぐ縦に伸びる参道が特徴的です。その左右には、石造仁王、本堂、観音堂跡、国東塔、講堂、六所神社、鬼の岩屋が配置されています。
鬼の岩屋は、岩戸寺修正鬼会の際に鬼をつくる岩屋で、元々は明賢という僧が魔物を封じた跡とも、モンゴル軍の魁将の首を埋めた場所ともされています。
岩戸寺講堂と国東塔
岩戸寺参道入口と石造仁王像
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六郷山の基本情報から、史跡指定のポイントまで、詳細な解説となっております。
動画で見ると境内の様子がよくわかりますので、是非ご覧ください。