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フランス・モンペリエ第3大学の先生方の紀行文を掲載します

更新日2024年12月02日

「くにさき」では、人々と鬼とが長年の友。

九州の大分県に位置する国東半島は、数多くの寺社が点在し、巡礼のように訪れることができます。ここでは、人間と鬼、古い友人のように共存している世界です。その未知の世界、国東・豊後高田の豊かな歴史を巡る旅をご案内します!

以下の記事は、ポール・ヴァレリー・モンペリエ第 3 大学 (フランス) の教授、マルティーヌ・アセナ、アントワーヌ・ペレス、ヴァンサン・シャレ先生らが、日本の大分県にある別府大学を訪問した際の経験に基づいて書かれたものです。 20245月と6月に開催される交流プログラム。今回の国東半島への遠征は、その取り組みを紹介することを目的としていました。この地域で実施されている「日本遺産」プロジェクトと連携し、この地域が体現する歴史的・文化的価値を共有することを目的としています。この交換プログラムは、モンペリエ第 3 大学と別府大学間の 25 年を超える学術協力の一環です。

ポールヴァレリーモンペリエ第3大学の専門家が贈る日本の歴史を堪能出来る旅。

 

詳細はこちら(PDF)

別府

車は朝早く到着した。外はまだ暗かった。旅館の窓から見える空は鉛色で、長い雨の流れがまだ灯る街灯に照らされて銀色の糸のように平行線を描いていた。温泉の噴気孔からは濃い湯気が立ち込めていた。

国東に向けて出発。午前の中頃、私たちは幹線道路を離れた。車の周囲を引き裂くような霧の中、あるいはその逆かもしれないが、道は深緑の風景の中を曲がりくねっていた。初夏の梅雨だったが、途切れなく降り続く雨のカーテンで、遠くかすかにしか見えていなかった不気味な塊が、緑に覆われた山の風景の中にようやく姿を現した: 国東、鬼の山。そこは太古の昔、鬼が人をさらって食らっていた場所...。異界への入り口か。

- おそらく。しかし何よりもここは日本発祥の地のひとつである:12世紀以上前、土地の神々たちと仏陀とが結びつき、様々な仏となった場所である。しかし、なぜこのようなことが起きたのだろうか?

宇佐

私たちの旅はもっと以前、実は何年も前から始まっていた。それは宇佐から、最も古く由緒あるその八幡宮から始まった。九州の主要な神道の地であり、本州の伊勢神宮につぐ威厳ある場所、また伏見稲荷大社につぐ重要な場所である。

日本の歴史的な宗教が誕生したのは国東半島に隣接する九州北岸のこの地である。ここで初めて土着の神である八幡神八つ(多く)の旗が立つ神が仏と運命を共にしたのである。それははるか昔、侍の時代よりも、京都の栄華よりもさらに昔...。古代の日本で、正確には749年、古い年代記を信じるなら天平21年、聖武天皇の治世に起こった。八幡神を乗せた神輿は、寄藻川に架かる呉橋を通り、日本最初の国家である大和の中心地、奈良の都がある関西まで続く天皇勅使の道を、厳粛な行列をなして進んだ。そして、神託を得た巫女を伴い、八幡神は盧舎那仏の巨大な銅像がそびえ立つ東大寺の門をくぐった...。

このことにより、九州から来た神道の土着の神で、応神天皇が神格化したとされる八幡神は、東大寺、仏陀、ひいては国家全体の守護神となった(注2)。これは聖武天皇の願いであり、彼の仏教への深い帰依は、日本を、中国をモデルとした宗教的な政治体制に非常に近い段階へと導いた(注3)。やがて、八幡神は自らも大菩薩となる...。

隣国の中国とまだ非常に似ていたこの古代日本で(注1)、国の歴史的な宗教現象である神仏習合(神仏習合という言葉自体は新しい)が生まれたのはその頃である。

この神仏習合はあまりに特異であるため、今日においても外国人が理解するのはかなり難しい。

神は宇佐に戻った。新しい教義に従って、境内の中心に、豊前からのびる天皇の使者の道「豊前官道」にほど近い場所に仏教寺院である弥勒寺が建てられ、大いなる聖域への入り口を示していた。今度は仏陀が土着の神に迎え入れられたのである。八幡宮は宇佐神宮となり、日本最初の神仏習合の場のひとつとなった。今日、弥勒寺のもので残っているのは一枚岩の台座だけで、明治時代に「廃仏毀釈」された寺のかすかな名残である。それはまた別の話だが...

 800年頃、天台宗に属す弥勒寺は、隣接する国東半島に僧侶たちの修行の場を開くという非常に特別な形態をもたらした。おそらく弥勒寺傘下の最も古い僧院である富貴寺はその起源が宇佐神宮の歴史と結びついており、平安時代の建築の傑作である本堂(大堂)には蓮華の上に座す「浄土の仏陀」である阿弥陀如来像が安置されている。

 田染郷(古い呼び名)はその最初の修行の場のひとつである。太古の昔から鬼に取り憑かれたこの秘境に六郷満山と呼ばれる多くの寺院がやがて根を下ろす。 今日、それらはいにしえの日本とその宗教の生きた記憶であり、生きるモニュメントである。

国東

古代の豊前国と豊後国の国境、八幡宮の真横、巨大な玄武岩の円盤のほぼ中央に標高700mの両子山がそびえる円錐形の火山半島の周りに、31の寺と神聖な場が築かれている。瀬戸内海に根を下ろす両子山は、6つの大きな谷「山に囲まれた6つの地区」を形成している。

国東、それは要約のように、伝説的な日本、緑豊かで熱帯に近い自然、そして文明の精髄である。まず山、そしてもちろん森。春が終わって梅雨がやってくると、霧、降り続く雨。苔、背の高い杉、木陰、そしていたるところから漂う下草の甘い香り。時折点在する光の群れ、それは、険しい山々の間を蛇行する川の周辺に幾何学的な田を広げて見せる古来の条里。そして再び山、森。霧に紛れた鳥居、果てしなく続く石段を一対の仁王尊が挟む。これらの石で造られた守護者は-ヘラクレスの遠い子孫か-悪魔の影響から聖地を守っていた。頂上では穏やかな仏陀の姿が岩の中から現れ、神道の神とその聖域を見守っている。もし逆でないならば...。例えば、豊後高田の磨崖仏、大日如来について、熊野川源流の精霊である不動明王は後になってその近くに彫られ、その穏やかな表情が見る者に安心感を与える。さて、誰が誰を見守っているのか...

それから、寺院、鳥居、石塔、仏塔、彫像、参道、そして再び森。森は常に在り、すべてを覆い、空間を食い尽くす。訪れる者をのみ込んで。それは森林浴である:今日では疲れた都会の人々が自然とのつながりを取り戻すための簡単な治療法であるが、昔は修行僧が敵対する森の下草を手なずけるまでの恐ろしい試練であった...。この和解の証人である奇抜な岩壁の像、精霊、鬼たちは、僧侶や勇敢な者たちの祈りと意志によって友好的になり、国東で一年を通して豊作をもたらす恩人として崇拝されるようになるまで日本人を恐れさせていた。異界の扉が開かれ、人間たちは戻ってきたのだ...

国東は日本の始まりのひとつであり、おそらく最も知られておらず、最も秘められ、最もよく保存されている。日本には多くの発祥の地がある。もちろん関西が最も観光客が多い。京都の金閣寺、奈良の東大寺、伊勢神宮、京都の伏見稲荷大社などには、一年中、毎日、何百万人もの観光客が押し寄せる。

より親しみやすく、より静かで、より守られているのは、九州の国東という世界だ。そこでは、中国からやってきた仏像が太古の昔から住民が親しみを込めて崇拝してきたその土地の無数の精霊と同化している。武士の時代よりはるか昔、南九州の隼人(注4)がついに奈良の軍勢に屈服したとき、初期の天皇たちが、彼らの共通の祖先である応神天皇の不滅を体現し、宗教的・政治的な正当性を保証する土着の神を求めてやってきたのが、ここ、古代日本の最果ての地であった(注5)。

 

国東を訪れる人はまれだ。しかし、ここは温泉地別府に近く、日本全国からやってくる都会の人々にとても人気がある。これは歓迎すべきことであり、日本や世界の他の地域のあまりに多くの素晴らしい場所を荒廃させている過剰観光から自然環境とその場所を守っている。しかし、残念なことでもある。少なくともこのような歴史と文化の宝庫がほとんど知られていないことは残念でならない。この短い文章が大きな不公平を正す一助となりますように。

豊後高田の森林浴へ向かう道

梅雨。国東半島へ足を踏み入れる。まるで巡礼地のようだ。そこは聖域であり、11の寺院、アジサイの青、稲作をする人々、石となった鬼神像のしぐさを守護する場所。今は6月。この地は梅雨の水や苔で、もみじ、シダ、竹、杉の葉で覆われる。この火山で、鬼の国で、八幡神の物語が語られるのだ。

熊野磨崖仏 国指定重要文化財、国指定史跡 豊後高田市、田染平野

村人を食らう鬼が自分の悪行を帳消しにするために、熊野権現の命令で、激流に沿って混沌とした巨大な階段を作った。やすやすと石を積んでいく鬼の腕力に驚いた熊野権現は、階段完成一歩手前で鬼の作業を妨げる。鬼は虚空に落ちたが、不規則に積まれた石の階段は一段足りぬまままだそこにある。その頂上、水路の起点近く、小さな広場は泉の守護者である不動明王像(高さ8m以上、平安・鎌倉時代)の慈悲深く穏やかな微笑みであふれている。一方の大日如来像(高さ7m程、平安時代後期)には、その繊細な顔立ちと巻き毛の髪が見てとれる。

このふもと、境内の入り口には鳥居が立っている。 茅葺き屋根の小集落は江戸時代にさかのぼり、平安時代には半島の鍛冶屋や磨崖仏の彫刻師が住んでいたと考えられている。 

村に雨が降る。稲田とアジサイが梅雨に潤う。高齢化する人々によって育てられたこの風景は、先祖代々から続く伝統の農業を守り、若い世代の参加を待っている。

「無明橋から落ちる清き心はない」(豊後高田市、長岩屋 ー 国指定名勝、国指定史跡)

耶馬の上に浮かぶ天空の危険な道を進むことは、神々の霊徳である「鬼」を征服するために僧侶たちが自らに課す試練である。彼らの挑戦は、半島各地に六郷満山が開かれた養老2年(718年)に始まった。

断崖絶壁の下、岩肌にへばりつくように建つ天念寺には、お祓いの際に燃やされる松明(おてび)が保存されている。渓谷では、岩に浮き彫りにされた神々が人々を洪水から守っている。 

日本列島の大きな島で最も南に位置する九州の国東半島の風景は、日本の風景の中で間違いなく最も喚起的であり、最も秘境的である。京都や奈良の荘厳な寺院の門に押し寄せ、絶え間ない騒音で静寂をかき消す群衆から遠く離れ、それらの風景は、幹線道路から離れている不便さと同時に、まさにその素朴さの中に、明治の近代化が手をつけていなかった先祖伝来の日本を垣間見せてくれる。ここでは、飼いならされた鹿が、観光客の手からせんべいを奪い取ろうとせめぎ合うことはない。流れの速い岩だらけの川に沿った道の先には、隣り合う2つの木造建築物があり、1つが天念寺の講堂である。それらは正面の高ぶる水の音と背後の薄暗い崖のかすかなささやきの間に挟まれるように建っている。ほぼ双子のような2つの構造物の一方は閉ざされたままの寺院、もう一方は神社で、日本では普通の神仏習合の象徴である。この神社も他の神社と同じように、太いしめ縄で飾られ、そこから帯状の紙や藁のしんがぶら下がっている。寺院と神社はおとなしく川の水面/流れを見守っているが、その水面が静まっているように見えるのは、下にある、岩から削り出された仏が重い剣をもってにらみ、自由に広がる寝床から少しでも離れようとすれば、いつでも飛びかかることができるからだ。眉間にしわを寄せた不動の守護者は波を手なずけて楽しむ、それが彼の使命である。見上げると、山頂に張り付いた葉むらの向こうに、断崖絶壁に架かる石橋のアーチがひとつ見える:昔の巡礼者たちも今と同じように、道を進むためにはこの橋を頼りにするしかなかった。そして、少しでも霧が長引くと、少しずつ先に消えてゆく歩く人の亡霊のようなシルエットが橋の上に描かれる。これらの静かな場所を巡り、その穏やかさを感じると、夜、鬼が燃え盛る松明を手に火花を散らしてやってきて、大きな音を立てて世の中の災いを払い、長い冬の季節、悪霊を地下へ追いやるために人間と交わり酒を酌み交わす火と影の劇場になるとは想像もできない。国東の鬼は鬼以上の存在であり、ここの森の精霊なのだ。

鬼の騒ぎや荒々しさから遠く離れた富貴寺に来ると、その感動的なシンプルさに驚かされる。道路から寺は見えず、そこへ行くのに登らなければならない階段はその姿を隠すのに十分だ。しかし、ひとたび上の広場に登れば、富貴寺の特異性や唯一性は一目瞭然だ。日本では、目をそらしてしまうような巨大な石造りや木造の守護神が両側に立つ山門をくぐると、延々と続く砂利道を通ってようやく本堂にたどり着くような寺院が多々あるが、富貴寺は木造の大堂(九州最古のもの)が林の間の敷地の真ん中に建っている。ここには、不自然な装いも、もつれ合う炎や光も、梁に体をもたせかける龍の姿もない。あるのは、端が湾曲した瓦屋根の整ったラインと、入り口を閉ざす木製の戸で仕切られた暗い塊だけだ。まだ柔らかな葉の緑を背に静かに佇むほっそりとしたシルエットの富貴寺は、それ自体がひとつの世界であり、静かな瞑想へと誘う。

しかし、国東半島は単なる聖域ではない。一見しただけで中世の荘園という不可侵の世界に飛び込むことができる。田染荘を見下ろす岩の上から、季節の移ろいとともに稲の苗の緑が濃くなる谷底の、変わることのない区画を分ける明確な線を目で追う。その中を一本の川が流れ、歩道橋ほどの細い橋が渡されている。川は物憂げで、ゆるやかで、まるで蛇行しているかのようだ。遠くには村があり、そこから農夫が鋤を肩に担いで平然と出てきて、自信ある足取りで耕作に向かっていきそうだ。葉の緑や鈴の音を詠んだ俳句が何十句と思い浮かび、日本の農家の繊細な手によって毎日毎日生み出され、損なわれることのない、しなやかな模様の不変の痕跡に、延々と思いを馳せることができるだろう。そこには、ところどころに今日のカエルを求めて昨日の風景を歩き回る白鷺の白い斑点がある。何世紀も変わらないこの田んぼが人間の記憶から消え去るかもしれないと誰が思うだろうか。あまりに穏やかな田んぼを見れば、それは不滅だと思うだろう。

今回の取材から作成した国東半島巡りのコース