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都甲谷が生んだ勇将・吉弘統幸について

更新日2021年09月13日

 「敗軍の将は兵を語らず」という諺にあるように、古来より戦の敗者について語られることはあまり多くありません。しかし、都甲谷の吉弘統幸は、敵方からも「真の義士」と称えられ、命尽きるその瞬間まで忠義を尽くした勇将として、今もなお語り継がれています。
 9月13日は、統幸の命日ですので、彼の事績をたどってみたいと思います。

大友家の重臣・吉弘家に生まれる

 吉弘家は、鎌倉時代から大友氏に仕えていた武士の一族で、国東半島一帯を治めていた大友家臣・田原家の分家にあたります。元々の本拠地は国東市武蔵町吉広にありましたが、戦国時代に都甲谷に本拠地を移しました。周防灘や宇佐高田方面で増えていた大内氏との戦いに備えた移動であったと推測されます。
 その後、天文3年(1534)におこった大内氏との決戦・勢場ヶ原の戦い(杵築市山香)で大将を任された吉弘氏直は、死闘の末に討死しましたが、弔い合戦に燃えた別部隊が大内軍を追い返しました。
 氏直の跡を継いだ吉弘鑑理は、大友氏の加判衆(大友氏の文書に署判をする有力家臣)として活躍し、筑前・豊前方面で多くの戦功を挙げ、立花道雪・臼杵鑑速とともに、豊州三老と称されるまでになりました。その子、吉弘鎮信・鎮理(後の高橋紹運)も、筑前・豊前方面の多数の戦で活躍し、吉弘氏は大友家の重臣と呼ぶべき一族でした。
 永禄7年(1564)、吉弘統幸は、鎮信の嫡男として都甲谷にあったとされる筧の第で生まれたとされています。

大牟礼山の吉弘氏直の墓

父・鎮信の死と田原親貫の乱

 天正6年(1578)、統幸が15歳の頃、大友氏は日向国(現在の宮崎県)で勢力を伸ばす島津氏に対抗して、大軍を率いて南進します。この時、国東半島からは、統幸の父・鎮信を中心にして、多くの武士が集められます。
11月、大友軍は大軍で日向高城(宮崎県木城町)を包囲していましたが、小丸川の対岸に島津義久らの援軍が駆けつけてきます。大軍同士が睨みあう中、田北鎮周らが交戦を主張したため、11月12日に大友軍は川を渡って島津軍に攻撃を仕掛けましたが、待ち伏せた島津軍の反撃に遭い、逃げた先の竹鳩ヶ淵を渡り切れず、多くの将兵が追撃を受けて討死しました。この時、吉弘鎮信もまた壮絶な死を遂げたとされています。
後に耳川の戦いと呼ばれたこの合戦から、大友氏の凋落の時代が始まるとされています。

市内には天正6年11月12日の銘が入った石造物がいくつか残っています(写真は長安寺宝篋印塔)

 父・鎮信の死により、弱冠15歳で吉弘家を継ぐことになった統幸に、いきなり耳川の合戦後の不安定な国東半島の領土を守るという難題を突き付けられます。
国東半島を古くから治めてきた田原家の親宏が、勢いを失いつつあった大友家に反抗して挙兵を画策。直前で急死した親宏の跡を継いだ養子の田原親貫は、大友宗麟に正式な後継者に認められないことを不満に思い、謀反を起こします(田原親貫の乱)。
 統幸はこの動乱の中で、領土を守り抜くため、屋山城の改修を行いました。この時の城の状態が、現在の屋山城跡にも伝わっているとされています。また、田原親貫の立てこもる鞍懸城(豊後高田市佐野)に向けて、幾度か攻撃を仕掛けて戦功をあげています。
 10ヶ月の時を経て、鞍懸城は陥落し、親貫は逃亡中に大友氏の家臣に見つかって殺されたとされています。
 その後も、各地の戦で統幸の武名はとどろき、豊臣秀吉から皆朱の槍を授かるほどであったとされています。

屋山の堀切

屋山山頂からの眺望

佐野鞍懸城跡

都甲谷と吉弘統幸

 吉弘家は代々熱心に仏教を信仰していました。中でも統幸の父・鎮信は、中世の六郷満山で最も力を持っていた長安寺で別當職に任ぜられ、天念寺の大般若経(市指定有形文化財)などの再興など、周囲の六郷満山寺院の保護にも取り組みました。
 統幸も長安寺の権別當職に任ぜられ、太郎天(重要文化財)に対する願文も知られています。願文には、「すぐにでも法体になり仏教に邁進したいが、武門の家に生まれた身であるので、主君に命をささげている」といった旨の、統幸の思いが分かる内容が含まれています。
 文禄2年(1593)、文禄の役の際、統幸も大友義統の軍勢に加わって参陣しましたが、義統が平壌城で危機に陥った小西行長を見捨てて、敵前逃亡をしたとして、豊臣秀吉の逆鱗に触れ、義統は豊後国を改易、流刑となってしまいます。この際、統幸も関東供奉として、義統の警護や身の回りの世話をしていたようです。
 この時に、統幸も都甲谷の領土を失い、一時浪人となってしまいます。中津の黒田官兵衛の家臣・井上九郎右衛門に身を寄せた後、柳川で大名となっていた従弟の立花宗茂のもとに身を寄せることになります。

長安寺所蔵の木造太郎天(重要文化財)

秋の屋山(遠景)

長安寺

石垣原の戦い

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに向けて、日本の歴史が動こうとしていた頃、統幸は江戸の牛込に幽閉されていた大友能乗に協力するために江戸に向かう途中、上関(山口県)でかつての主君・大友義統に再開します。豊後一国の安堵を約束され西軍に付くという義統を、統幸は止めますが、義統の意志は固く、統幸は義統と一緒に別府に渡ることを決意します。
 別府の立石村に陣を構えた義統のもとには、田原紹忍や宗像掃部など、かつての旧臣達が集結しました。しかし、中津の黒田官兵衛・小倉の細川忠興らが、大友軍の数倍の軍勢で別府に進軍し、石垣原を挟んで実相寺山などに陣を張りました。
 統幸は石垣原を見渡せる観海寺から打って出て、数日にわたり黒田の軍勢と互角に戦います。特に七ツ石の辺りでは激戦が繰り広げられたとされています。統幸の予想外の働きに、大軍の黒田・細川軍も攻めきれず、一進一退の攻防が続いたとされています。
 そして運命の9月13日、統幸はかつて身を寄せていた井上九郎右衛門との一騎打ちに臨みます。この時、統幸は一騎打ちに敗れたとも、旧知の九郎右衛門に自らの首を差し出すために自刃したとも言われています。
 統幸の死により、大友軍は総崩れとなり、義統の夢もついえてしました。

吉弘統幸陣所跡

七ツ石稲荷神社

伝説となった統幸

 石垣原の戦いで壮絶な死を遂げた統幸は、敵味方問わず語り継がれています。
 都甲谷にある吉弘氏の菩提寺・金宗院には次のような話が残っています。
 統幸の死の報せを受けた、金宗院の僧は別府石垣原に乗り込んで、命懸けで統幸の首を奪取します。僧は涙ながらに統幸の首を背負い、金宗院まで戻り、都甲川で首を洗おうとしました。すると、統幸の目がカッを開いて、「ああ、住職、よしな」と話しました。住職は驚いて、首を洗うのを辞めて、金宗院で供養をしました。それ以来、金宗院近くの流域を「よしな川(吉名川)」と呼ぶそうです。
 また、別府には細川氏によって吉弘統幸の廟を建てています。そこは後に吉弘神社となって、今でも吉弘統幸を祀っています。
 黒田家に伝わる『黒田家譜』には、「吉弘統幸がごとき真の義士は、古今たぐいすくなく事なり」と、統幸をたたえる一文が記されています。

 西国東郡の歌には、次のような一節があります。
 筧の第の(立花)宗茂は碧蹄館の花と咲き、屋山城主(吉弘)統幸は石垣原の露と消ゆ。
 時代の運命に翻弄されながらも、敵味方の両方からたたえられた吉弘統幸について、思いをはせてみてはいかがでしょうか。

金宗院跡にある吉弘統幸の墓

吉弘神社の社殿(上)と、本殿の裏にある吉弘統幸の墓

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